2014年01月26日
自然災害の一瞬
命は一瞬。
生きたいか生きたくないか自然の前では無意味。
自然は考える余地を与えてはくれない。
阪神淡路大震災から19年が経とうとしている。決して忘れないあの恐怖とあの光景。あの日は遅番で晩の11時に帰宅した。変に胸騒ぎを覚えてなかなか寝付けずにTVを流しながら何を思ったのか無意識に新聞を取り出して、、
「災害の記録を残さないと」と念仏を唱えるように必死で新聞の切り取りをしていた。
TVは朝の生放送を流していた。
AM5:46分にドンと言う爆弾がおちたような大きな音がした、、それから地面の中からドドドドと工事現場の地面を掘るような地響きが聞こえてきてそこからいっきに天井に突き飛ばされた。
生放送中のスタジオもパニック状態で画面は消えた状態で音声だけが聞こえてきて女性の叫び声と物が壊れる音や人の悲鳴が聞こえてきた。
私は飛ばされながらなんとか台所までたどり着きガスの元栓を閉めて中は危ないと判断して外に飛び出した。
外はもっと凄い事になっていてアパートの横の線路のレールがまるで波のように大きくうねっていて電信柱は大きく揺れて電線が火花をちらしてた。外はもっと危険と判断して家の中に引き返した。
TVは画面も映り地震の情報がテロップで流れだした。神戸が震度1と出ていた外はまだ暗くて何もわからない状態で震度も1・2と二転三転と定まらなかった。
夜も明けてきて辺りが明るくなりかけるにつれてとんでもない状態の映像が飛び込んできた。
その時に正式な震度が出て7だった。
直下型地震と発表があった。
高速が落ちている・・・その下には落ちた車が・・阪神の高速も崩れてる。その横の市場には前の主人がいるはず・・・・
ひざはガクガクし手は震えておもうように電話が持てない。空は報道関係のヘリが何社も飛び映像を全国に流した。
陸上では家族を探している人や父さんやお母さんが必死にわが子をさがしていた。でも瓦礫の下敷きになっている人の声がヘリの騒音にかき消されて聞こえにくい。
「お願いヘリを飛ばさないで」その声はすぐに届けられてヘリは飛ばなくなった。
ヘリを飛ばして状況を伝えて欲しいと視聴者の声もあったそうです。
実際その現場にいる人の声が最優先されて当然です。当事者は家族を探すのに必死だったのですから。
親戚が長田の長屋に住んでいてとてもきがかりでした。おじさんは下半身不随で車イスなのですが家の下敷きになりおばさんだけの力ではどうにもできなかったそうです。火の手がせまってくる中で隣近所の人が力を合わせておじさんを救ってくれたのです。(感謝です)
電話もパンク状態で繋がらなくて主人の安否は2日目にやっとわかりました。トラックで仮眠中で激しい揺れに「えらい強引な起し方やな」と本人いたって冷静だったようですが、、道路が崩れているので八方塞で連絡も取れなかったそうです。
不幸中の幸いです。主人とは縁がなく別れてしまいましたが、、生きていてくれてよかったです。
地震に巻き込まれて亡くなっていたら今の幸せはなかったと思うので。私は会社に訳を言って10間のお休みをもらい主人と物資を運ぶために一緒にトラックに乗り込み色々な所へ物資を運ぶ手伝いをしました。大型のトラックの荷台には全てが援助の物資でした。
道路は塞がれていてゆいいつ走れる道路に車やトラックが集中していて渋滞が続き1時間で行ける距離が6時間とかなり停滞していました。
疲労困憊しているトラックの運転手もいて渋滞中に寝てしまいよけいに渋滞していたのです。
でも誰もがその気持ちを知っているので責める人はいませんでした。皆がゆっくりとそのトラックの横をすり抜けていきました。
私は助手席に乗り外の悲惨な状況をみていました。写真に撮る事も無責任なので一切撮影せずに心の中に収めました。
、恥じない生き方を誓った昔の自分と19年後の今の自分。
19年の歳月は私の中で何が変わって何が変わらないのだろう?
変わった事は生き方が変わった。
精一杯に生きる事、、弱いものを守る事。
変わらないものは・・・頑固な所?
亡くなられた方行方不明のままの人の冥福をお祈りします。

生きたいか生きたくないか自然の前では無意味。
自然は考える余地を与えてはくれない。
阪神淡路大震災から19年が経とうとしている。決して忘れないあの恐怖とあの光景。あの日は遅番で晩の11時に帰宅した。変に胸騒ぎを覚えてなかなか寝付けずにTVを流しながら何を思ったのか無意識に新聞を取り出して、、
「災害の記録を残さないと」と念仏を唱えるように必死で新聞の切り取りをしていた。
TVは朝の生放送を流していた。
AM5:46分にドンと言う爆弾がおちたような大きな音がした、、それから地面の中からドドドドと工事現場の地面を掘るような地響きが聞こえてきてそこからいっきに天井に突き飛ばされた。
生放送中のスタジオもパニック状態で画面は消えた状態で音声だけが聞こえてきて女性の叫び声と物が壊れる音や人の悲鳴が聞こえてきた。
私は飛ばされながらなんとか台所までたどり着きガスの元栓を閉めて中は危ないと判断して外に飛び出した。
外はもっと凄い事になっていてアパートの横の線路のレールがまるで波のように大きくうねっていて電信柱は大きく揺れて電線が火花をちらしてた。外はもっと危険と判断して家の中に引き返した。
TVは画面も映り地震の情報がテロップで流れだした。神戸が震度1と出ていた外はまだ暗くて何もわからない状態で震度も1・2と二転三転と定まらなかった。
夜も明けてきて辺りが明るくなりかけるにつれてとんでもない状態の映像が飛び込んできた。
その時に正式な震度が出て7だった。
直下型地震と発表があった。
高速が落ちている・・・その下には落ちた車が・・阪神の高速も崩れてる。その横の市場には前の主人がいるはず・・・・
ひざはガクガクし手は震えておもうように電話が持てない。空は報道関係のヘリが何社も飛び映像を全国に流した。
陸上では家族を探している人や父さんやお母さんが必死にわが子をさがしていた。でも瓦礫の下敷きになっている人の声がヘリの騒音にかき消されて聞こえにくい。
「お願いヘリを飛ばさないで」その声はすぐに届けられてヘリは飛ばなくなった。
ヘリを飛ばして状況を伝えて欲しいと視聴者の声もあったそうです。
実際その現場にいる人の声が最優先されて当然です。当事者は家族を探すのに必死だったのですから。
親戚が長田の長屋に住んでいてとてもきがかりでした。おじさんは下半身不随で車イスなのですが家の下敷きになりおばさんだけの力ではどうにもできなかったそうです。火の手がせまってくる中で隣近所の人が力を合わせておじさんを救ってくれたのです。(感謝です)
電話もパンク状態で繋がらなくて主人の安否は2日目にやっとわかりました。トラックで仮眠中で激しい揺れに「えらい強引な起し方やな」と本人いたって冷静だったようですが、、道路が崩れているので八方塞で連絡も取れなかったそうです。
不幸中の幸いです。主人とは縁がなく別れてしまいましたが、、生きていてくれてよかったです。
地震に巻き込まれて亡くなっていたら今の幸せはなかったと思うので。私は会社に訳を言って10間のお休みをもらい主人と物資を運ぶために一緒にトラックに乗り込み色々な所へ物資を運ぶ手伝いをしました。大型のトラックの荷台には全てが援助の物資でした。
道路は塞がれていてゆいいつ走れる道路に車やトラックが集中していて渋滞が続き1時間で行ける距離が6時間とかなり停滞していました。
疲労困憊しているトラックの運転手もいて渋滞中に寝てしまいよけいに渋滞していたのです。
でも誰もがその気持ちを知っているので責める人はいませんでした。皆がゆっくりとそのトラックの横をすり抜けていきました。
私は助手席に乗り外の悲惨な状況をみていました。写真に撮る事も無責任なので一切撮影せずに心の中に収めました。
、恥じない生き方を誓った昔の自分と19年後の今の自分。
19年の歳月は私の中で何が変わって何が変わらないのだろう?
変わった事は生き方が変わった。
精一杯に生きる事、、弱いものを守る事。
変わらないものは・・・頑固な所?
亡くなられた方行方不明のままの人の冥福をお祈りします。

Posted by なびかま at 16:12
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